12歳の終戦まで国後島で過ごした三浦さんに話を聞いた
箇条書きでまとめてみました。
- ヒグマはいっぱいいた。死んだ熊の背中に乗せられたこともある。
- 馬がよくヒグマにやられていた。
- ロシア兵は野蛮(馬車を引きながら豆を炊き、途中日本の馬を見つけたら道路の真ん中でも殺して捌いて肉を鍋に入れて煮ながら移動していた)
- ロシア兵は土足で家に入り金目の物を盗んでいった。三浦さんの父はサハリンに住んでいたことがあるからロシア語が話せた関係でうまくコミュニケーションをとり、一切土足で入ってきて金目の物を取られることもなかった。
- おっきいタラを三浦さんは子どもながら3匹ロシア兵に持っていったらロシア兵は喜んでいた。
- 父からロシア兵が来たら「ズドラーストヴィチェ(Hi)」と言いなさいと教えられていて、ロシア兵が来るたびに言うとロシア兵は2回返してくれた。
- 広大な土地を持っていたけど、登記はたぶんしていなくて、口約束みたいな感じで、ここからここはうちね。みたいな感じだった。もう国後に戻って仕事できるわけでもないし、ほしいならくれてやる!って言ってた。
- 逃げたのは終戦3ヶ月後の11月。先に父以外を島から出した。根室から船をチャーターした。当時はお金より、米が重要で片道7俵半。10世帯くらいでお米をかき集めて逃げた。国後はお米が取れないから一年分まとめてお米を買っていたからお米自体はあった。
- 根室に着いて日本分の基地(上空からは土にしか見えない、地下室)で一週間くらい過ごす。
- 父と合流。父は自分の漁船に家財道具を積んでくるはずだったが、仲間を呼びに行っている間に、他の仲間が荷物をつんでしまい、結局自分の荷物は乗せられないまま逃げてくる。
- その後一旦瀬棚に入るが、夕張の炭鉱で燃料代はタダで働けるという話を聞きつけ夕張へ。
- 元漁師はやっぱり炭鉱には向かず、魚が手でつかめるという話を聞き、奥尻へ来る。(国後島から47世帯が来るが残ったのは三浦さんのみ)
- 磯舟を作ることができ、器用だったから三浦さんは残ることができたけど、もともと昆布漁をしていた国後の人は肌に合わず、根室や釧路へ戻っていった。
- 奥尻へ来たときは家もなく、テントで暮らしていた。その間に小さい小屋を立てそこに住む。正月にテントを飛ばされた仲間も見てきた。
- その辺の草も食べていた。
- イカつけをしていたから、学校へ行っている暇もなく家族のご飯を作るのに忙しかった。
- 文字を学んだのは小説をずっと読んでいたから。近くの先生から本を借りてきて読んでいた。
- 8人兄弟いて、みんな若かったから島を出てそれぞれ仕事を探せってなったんだけど、結局三浦さんだけはココに残り漁師を続けている。
- 奥さんは島を出たかったのが本音。
- 20年間夏は奥尻、冬は神奈川で出稼ぎをしていた。(船の部品作り、ビルの解体)
- 神威山を越えて奥尻まで行っていたから、神威山は知り尽くしていて迷うことはない。(当時はトンネルがなく、神威脇地区は孤立していた)
- ホヤ石(西海岸の奇岩の一つ)で夜を明かすことも。
- 物資は漁船で青苗(奥尻島の南の地区)から調達していた。
- 大漁の魚は部落の人に配って歩いた。(冷凍庫もない)
聞くだけで想像を絶する体験をされている。
色々衝撃だけど、三浦さんのお父さんがかっこいい。
生きるか死ぬかの追い込まれた状況で、家族や仲間の命を優先して動くことはそう簡単なことではない。
そして車もない中での大移動。
そして家もない、ライフラインも整っていない中、それらを一つ一つ作り上げっていく不屈の精神。
自分はまだまだ甘ちゃんだ。
もっともっと当時の話を聞きたい。
第二弾も投稿する予定です。
日本を代表する彫刻家・流政之さんの彫刻『北追岬』
国後島を追われた引揚者が故郷に想いを馳せる姿